でもその分私たち、けっこう目立ったと思います。
(写真でもわかる通り・・・Tシャツのブルーがイイ→)
(写真でもわかる通り・・・Tシャツのブルーがイイ→)
ここに至るまで、沿道からの声は、
「9条守るなんてそんなことをしてるからあかんのや」
「9条守るなんてそんなことをしてるからあかんのや」
「9条と25条って何だっけ?」
「いい取り組みやな。応援するわ。」
「がんばれ~」
などなど。
などなど。
やっぱり応援してくれる声が励みになります。
さて、常寂光寺へ。
このお寺は、藤原定家が百人一首を選定した時雨亭の跡とも言われているお寺。
紅葉の間からきらきらと木漏れ日がさして、思わず見とれてしまうほどでした。
③常寂光寺の「女の碑」
「女ひとり ここに平和を希う」との碑文が刻まれた「女の碑」がありました。
戦争に駆り出された多くの若者は、再び還ってきませんでした。このため敗戦の頃に結婚適齢期であった女性の中には、生涯独身を通した人々が多くいました。
「女ひとり ここに平和を希う」との碑文が刻まれた「女の碑」がありました。
戦争に駆り出された多くの若者は、再び還ってきませんでした。このため敗戦の頃に結婚適齢期であった女性の中には、生涯独身を通した人々が多くいました。
長年女性差別や独身軽視という心の痛みを抱いてきた女性たちの思いが、住職長尾憲彰氏とかつての同僚である谷嘉代子さんの「わだつみの女性の世代、仲間同士で記念碑を作る」という計画に集まり、「女の碑の会」が1978年に設立されました。
1979年に建立。碑文を書いたのは元参議院議員の市川房枝さんです。
1979年に建立。碑文を書いたのは元参議院議員の市川房枝さんです。
それと合わせて、「志縁廟」も見に行きました。
「女の碑」の建立を機縁に、合祀墓の建立計画が進み、独身女性の他、独身男性、子どものいない夫婦、従来の「家の墓」になじまない人々も受け入れられるようになりました。
そして1990年春に、共同墓地である納骨堂の「志縁廟」が完成しました。
そして1990年春に、共同墓地である納骨堂の「志縁廟」が完成しました。
今回は中を見ることができなくて残念ですが、概観も美しいつくりになっていました。敷地の脇にあるので目立たず、案内してもらわなければ気付かないようなところでした。
また、この住職さんの元で復元された釣り鐘も案内していただきました。
自身も戦争体験を持っておられ、「多くの戦争犠牲者によって今の平和憲法が出来た。仏教は戦争を奨励しない。」との思いから戦争の際に供出した釣り鐘を復元したのだそうです。
今回はかないませんでしたが、予定さえあえば住職さんのお話を聞くこともできるそうです。
自身も戦争体験を持っておられ、「多くの戦争犠牲者によって今の平和憲法が出来た。仏教は戦争を奨励しない。」との思いから戦争の際に供出した釣り鐘を復元したのだそうです。
今回はかないませんでしたが、予定さえあえば住職さんのお話を聞くこともできるそうです。
常寂光寺では、私たちが話を聞いていると観光客の方も「何かあるの?」と足をとめていかれました。
すかさずビラや資料などお渡ししましたが、観光だけでなく戦争の歴史や思いを感じ取っていただけたらいいなと思いました。
そして、いよいよピーチャリクライマックス!
清滝までの道を自転車にて走ります。
登って登って登って・・・・
写真のトンネル前に到着です。
太ももがパンパンになりました・・・。
でもトンネルをくぐればあとは下り坂♪
すいす~いと・・・と思ってたら結構な急カーブ!
びっくりしながら、30分ほど?のアピールサイクリングを楽しみました。
そして清滝へ。
最後の戦争遺跡です。
最後の戦争遺跡です。
④愛宕山のケーブル線
しかし、1941年8月、政府は「金属回収令」を公布、娯楽施設の金属類などは真っ先に目をつけられ、天橋立のケーブル、比叡山ケーブル、淀競馬場の大鉄傘などは、すべて撤去・供出されました。
現在はケーブルの軌道やトンネル、駅舎の跡がわずかに残っているだけです。
(トンネルは崩落していて現在は通行不能。)
ここには、「京都愛宕研究会」が立てた説明板が立っていました。
こうして説明などがあれば、通りかかった時に目に付くので大事ですね。
学んで、走って、アピールして、欲張りなピーチャリですが、参加したみんなにとって楽しい企画となり、よかったなと思っています。
いつの日か、もう間もなく、自分たちも戦争遺跡を語り継いでいかなくてはいけませんね。
参加したみなさん、お疲れ様でした(^^)/
ご協力いただいたみなさん、ありがとうございました!
(戦跡の紹介は「戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会」の資料とガイドさんのお話を参考にしました。)
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