2010年12月23日木曜日

やんばるの森にヘリパッドなんていらないよ。

高江のヘリパッドの話、ちょっと前にピースアクションの会議でパンフを読んだ気がします。みなさま覚えてますか?ジュゴンの折り紙は難しくてぐちゃぐちゃになっちゃったよね。
辺野古支援のミニ学習会の際、その高江のお話をしに「ヘリパッドいらない住民の会」共同代表の伊佐真次サンが来てくれました。伊佐サンとは皆でその晩お酒を飲みに行って、次の日一緒に辺野古の海もボートで回りました。その伊佐サンは今、平和的な座り込みを“通行妨害”とする国から裁判を起されています。そして国は昨日12/22自ら起した裁判中に、しかも早朝の暗闇を狙って、100人ものバリケードを組んで、ヘリパッド周辺のフェンス設置工事を強行したそうです。
私たちの目がつい普天間に、辺野古に向いている間に、それ以外のところではこれほど強引なすすめ方をしているのだと、開いた口がふさがりません。
以下、高江のブログhttp://takae.ti-da.net/より。

************************************************

高江は、約160人が暮らすヤンバルの小さな集落です。
この集落をかこむように米軍のヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)を6つ作る工事が、始まっています。高江は米軍のジャングル訓練センターの真横にありますが、これでは訓練センターの中に高江があるかのようになります。高江では米軍へりが低く長く飛ぶのです。
これ以上ヘリが飛んだら、しかも新型機オスプレイが飛んだら、高江に人が住めなくなる!と考えた高江の住民が、「自分の家で普通に暮らすため」に去年の7月から工事現場の入り口で、工事をやめてもらうために座り込みを始めました。

http://nohelipadtakae.org/files/NahaBroccoli08flyer.pdf
↑↑
これパンフです。
そうそう、DVDも買ってきたので、今度の会議の時にでも一緒に観ようね。

2010年12月14日火曜日

第22次辺野古支援・連帯行動②

はい、続きです(笑)
3日目はアブチラガマ(糸数壕)見学から。
アブチラガマは全長270mの鍾乳洞。ここは一時600人をこえる負傷兵で埋め尽くされ、200人の日本兵や住民が生活をしていたそうです。20年前、初めてこの壕を訪れた時は、落ちている人骨らしきものにひたすら恐怖を感じ、2度目の時は、懐中電灯を消したら自分の手すら見えない暗闇で、ごつごつ湿った岩の空間で人が生活していたなんてやっぱりどこか信じられなくて、そして3度目。落ちている茶碗やガラスのかけら、廃油のランプですすけた岩肌、空気孔、かまど跡など確かに人がいた気配を感じざるをえなかった気がします。
ガマは一番奥の安全なところが、将校や軍医の部屋、真ん中が兵隊、病棟、食料庫、一般住民は一番危険な出口付近、さらに韓国人などという配置になっていたそうです。軍隊は決して沖縄の住民を守るためにいたのではないという事実がここにも・・・。

その後ひめゆり平和祈念資料館へ。資料館見学後、館長さんの証言も聞かせていただきました。行ったことのある人が多いと思うので、私の感想は不要かなと思いつつ一つだけ。第4展示室「鎮魂」沖縄戦で亡くなった277名の教師・生徒たちの遺影とその人柄、亡くなった当時の様子などが展示されています。この展示方法にいつもはっとさせられるのです。女学生さん、兵隊さん、そしてアメリカ兵…。色々な呼び名でくくられた大勢一人ひとりに、それぞれの人格があり、生活があり、人生があったということ。戦争というものはそれを踏みにじるものだということ。ひめゆりは決して有名な戦争物語などではないということ。

沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはないと 思うのです

このなまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することは できないはずです

戦争をおこすのは たしかに 人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち 人間 ではないでしょうか

戦後このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねば と思いつづけてきました

これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです
(沖縄県立平和祈念資料館 運営協議会 作)

いっつも渦中にいる時は分からなくて、全部終って帰ってきて、こうやって思い返してやっと自分がしてる体験の貴重さに胸を衝かれます。次の辺野古支援は3月です。ぜひたくさんの人に経験してきてもらいたいナと思います。今回が22、次は23次。つまり22×60人も全国に同じ経験をした民医連職員さんがいるのよね。ちょっと明日から探しに行って語り合わなくちゃ。


2010年12月12日日曜日

第22次辺野古支援・連帯行動

全日本民医連が継続して取り組んでいる辺野古支援連帯行動に12/10 ~12参加してきました。何回も行ってる沖縄ですが辺野古支援という形では初体験でした。1日目は普天間、嘉手納の基地見学。2日目に辺野古へ。

私たちが行った12/11 は座り込み2428日目(ちなみに前行った時は1035日目)でした。気の遠くなりそうな長いながい時間。地元の人たち、全国から来た人たちが、それぞれの思いを抱えて同じようにここに座って、時には海上のやぐらの上からこの美しい海を見つめてきたんだよな・・・。
過疎地で、漁業資源も少ない辺野古漁協を、地元の人たちを、基地とお金をちらつかせて真っ二つにしただけでもものすごく罪が重い。たった6,7時間いただけで何が分かったというのも憚られるようなとても静かなたたかい。今回の団長、鳥取の皆木先生の「ここでは怒りの拳を振り上げるよりももっともっと難しいたたかいを続けている」という言葉が胸に重く響きました。
辺野古の海はホントに綺麗でした。海底の珊瑚までみえる遠浅の海。一気に深くなって瞬間色がエメラルドグリーンから深い青に変わる。波も日差しも穏やかでうっかりうっとりしてしまうくらい。ボートで一時間かけて回った範囲に海上10メートルもそびえるV字型滑走路が作られるという計画です。海上に“V字”が書いてあるよく見るあの図の実態に圧倒されてしまいました。

ご存知キャンプシュワブの境界線にある有刺鉄線。この日はだいぶ錆びてへちゃげてたのですが、この2日後には管総理来沖の報をうけて新品の有刺鉄線に張りかえられたそうです。ほんとやることせこくて笑っちゃう。ちなみに有刺鉄線がくちゃっとなっているのは、門限を過ぎて正面玄関から入れなくなった米兵が踏み越えるから。ここにコンクリートの壁を作って一番困るのはさて、誰でしょう。

今日送られてきた全国の参加者の感想の中に「金網の向こうから無邪気に私たちに手を振ってくるまだあどけない顔の米兵。彼らもアメリカの貧困という現実を背負って沖縄に来ている。私たちの敵は単純に彼らだと思ってはいけない」というような記述がありました。そうなんだよね。単純に分かりやすい構図にしてしまうと、絶対に何かが見えなくなってしまう怖さ。だからこその難しさ。


そして書いてたらどんどん長くなってしまってもう寝る時間(笑)
というわけで3日目はまた後日・・・。